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浄土真宗の歴史

浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれましたが、その後、室町時代に蓮如上人(れんにょしょうにん)によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中でも代表的な教団の一つとなっています。もともと、本願寺は、親鸞聖人の廟堂(びょうどう)から発展しました。親鸞聖人が弘長2年11月28日(新暦1263年1月16日)に90歳で往生されると、京都東山の鳥辺野(とりべの)の北、大谷に石塔を建て、遺骨をおさめました。しかし、聖人の墓所はきわめて簡素なものでありましたため、晩年の聖人の身辺の世話をされた末娘の覚信尼(かくしんに)さまや、聖人の遺徳を慕う東国の門弟達は寂莫の感を深めました。そこで、10年後の文永9年(1272)に、大谷の西、吉水の北にある地に関東の門弟の協力をえて六角の廟堂を建て、ここに親鸞聖人の影像を安置し遺骨を移しました。これが大谷廟堂(おおたにびょうどう)です。この大谷廟堂は、覚信尼さまが敷地を寄進したものでしたので、覚信尼さまが廟堂の守護をする留守職(るすしき)につき、以後覚信尼さまの子孫が門弟の了承を得て就任することになりました。大谷廟堂の留守職は、覚信尼さまの後に覚恵(かくえ)上人、その次に孫の覚如(かくにょ)上人が第3代に就任しました。覚如上人は三代伝持の血脈を明らかにして本願寺を中心に門弟の集結を図りました。三代伝持の血脈とは、浄土真宗の教えは、法然聖人から親鸞聖人へ、そして親鸞聖人の孫の如信(にょしん)上人へと伝えられたのであって、覚如上人はその如信上人から教えを相伝したのであるから、法門の上からも留守職の上からも、親鸞聖人を正しく継承するのは覚如上人であることを明らかにしたものであります。本願寺の名前は、元亨元年(1321)ころに公称し、覚如上人の晩年から次の善如(ぜんにょ)上人にかけて親鸞聖人の影像の横に阿弥陀仏像を堂内に安置しました。これを御影堂と阿弥陀堂の両堂に別置するのは、第7代の存如(ぞんにょ)上人のときです。5間四面の御影堂を北に、3間四面の阿弥陀堂を南に並置して建てられました。
室町時代、第8代蓮如(れんにょ)上人は、長禄元年(1457)43歳の時、法灯を父の存如上人から継承すると、親鸞聖人の御同朋(おんどうぼう)・御同行(おんどうぎょう)の精神にのっとり平座で仏法を談合され、聖人の教えをだれにでも分かるようにやさしく説かれました。また本尊を統一したり、「御文章」を著して積極的な伝道を展開されたので、教えは急速に近江をはじめとする近畿地方や東海、北陸にひろまり、本願寺の興隆をみることになりました。しかし蓮如上人の教化は比叡山を刺激し、寛正6年(1465)上人51歳の時、大谷本願寺は比叡山衆徒によって破却されました。難を避けられて近江を転々とされた上人は、親鸞聖人像を大津の近松坊舎に安置して、文明3年(1471)に越前(福井県)吉崎に赴かれました。吉崎では盛んに「御文章」や墨書の名号を授与、文明5年には「正信偈・和讃」を開版し、朝夕のお勤めに制定されました。